【宮治の自分史 #03】高校後半編

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「こんな人生歩んできました」と自己紹介を兼ねてスタートした「宮治の自分史シリーズ」。

連載3回目となる今回は、私の暗黒時代を含む「高校生(後半)のエピソード」をご紹介します。

★参考情報:「宮治の自分史」シリーズの記事一覧

苦手よりも好きを伸ばす

私が通っていた高校は、2年生から進路に合わせて4つのコースに分かれるシステムになっていました。

中学生の時は「入学体験で感動したバイオリンをやろう!」と、芸術コースの音楽クラスに入るつもりでこの高校を受験したのですが……。

音楽的才能がないだけでなく、自分が演奏することに興味がない(聴くのは好き)と入学後すぐに気づき、芸術コースの選択肢は消えました。

理科や数学は大の苦手分野なので理系コースもなし。

残るは、進学を重視した文系コースか、バランスよく学べる文理系コースかの二択でしたが、私は迷わず文系コースを選択しました。

なぜ文系コースなのか。

教員免許を取得するために進学は希望していましたが「進学希望だから」という理由ではありません。

私が文系コースを選択理由はただひとつ。

「文系コースは理科の科目が一切ないから」

単純明快。これにつきます。

文系コースを選択すれば、大の苦手科目である理科を1科目も学ばなくていいのです。

そして、数学の授業も文理コースより少ない。

私にとってはパラダイスとしか言いようがないカリキュラムでした。

「苦手なことこそ克服すべき」なのかもしれないのですが「苦手なことよりも好きなことを伸ばす」ことの方が、勉強も楽しくできて、進学する目標も叶えられるのではないかと考えたのです。

理科から解放されて、すっかり気持ちが軽くなった私ですが、大人になってから興味が湧いたことは、苦手意識があっても勉強しています。

例えば、地学。

天体や宇宙に関する映画をきっかけに興味を持ったので、ざっくりですが勉強しました。

「知りたい」と思ったタイミングが学びのスタートだと考えているので、もしかしたらこれからも天敵だった理科の勉強をすることがあるかもしれません。

英語漬けと睡魔との戦い

無事に文系コースに進んだ私。

苦手な理科からは解放されましたが、その代わりに英語が目の前に立ちはだかりました。

文系コースのカリキュラムをよく見ると、英語だけで3種類以上の科目が設定されていて、1日の半分が英語。

私は国語や社会は好きで比較的得意でもありましたが、英語は中の下なので、とても苦戦しました。

そのため、試験勉強はほぼ英語に時間を取られ、本当にしんどかったです。

かなりの時間を費やし英語の勉強をしていたので、大人になった今でも活かせていれば良い想い出になっていたのですが、現実は厳しいですね。

完全に受験や試験のための英語の勉強になっていたので、残念ながら点数を取る方法しか身に付きませんでした。

加えてしんどかったのが、英語漬けを1年続けた高校3年生になってくると、アルファベットを見ただけで睡魔に襲われる症状が出てきたことです。

ひどい時は夢にまで英語が出てきて襲ってくるようになりました。

こんな感じで睡魔と戦いうなされながらも気合で勉強したのに、全く身になっていないのが厳しい現実。

テストの点数も通信簿も悪くはなかったですが、英語こそ大人になっても生涯にわたり活用できるスキルなのに全く活用できるレベルにはなりませんでした。

大人になってから英会話スクールの体験行ったり、実際に入会もしてみましたが、あまりに自分のレベルが低すぎてついていけず。

学び方を変えようとスピードラーニングなどの音声教材を購入して耳で覚える勉強もやってみましたが、身にならず。

あまり過去に戻りたいとは思わないタイプなのですが、英語だけは「もったいなかったな」と今でも思うことがあります。

高校時代に戻れるなら、英語の勉強方法を見直してイチからやり直したいです。

▲まさにこんな感じのアルファベットに押しつぶされる夢を何度も見るほど完全に英語アレルギーになってしまったのが悔やまれます。「英語が話せたらコミュニケーション楽しくなるだろうな」と感じる場面が大人になってから年々増えているので、もう1度トライしたいと思いつつ、重い腰が上がらないのが現状です。

強い想いが、奇跡を引き寄せる

高校3年生になると、具体的に志望校を決める決断に迫られるようになりました。

「学校の先生になる」という目標はありましたが、小学校なのか中学校なのか、高校なのか。

中学校、高校なら科目は何にするのか。

進学先は、短大ではなく大学と決めていたものの、その他は全く決めていませんでした。

ただ漠然と「高校の先生」というイメージは持っていました。

私が『「学校の先生になる」と目標を持てたのが高校生の時だったから』という単純な理由です。

そして、自分史上最大の暗黒期(中学3年生)を過ごした場所は避けたかったこと。

さらに「小学校はピアノの実技試験がある」ということで、消去法で残ったのが高校だったのです。

「学校の先生になる」から「高校の先生になる」と決め、志望校も考え始めたころから模試も受け始めました。

が、この結果がもう散々でとにかくひどかったですね。

でも「高校の先生になる」と気持ちが明確になっていたので、諦める気持ちは全くありませんでした。

ただ、やればやるほど模試の結果は散々の極みになっていき、絶望と焦りに押しつぶされる日々。

「大学進学は無理だよね」という自分と「いや、最後までやってみないと分からないじゃん」という自分がせめぎ合っているようでした。

そんなある日のこと。

奇跡と言っても過言ではない出来事が起きました。

指定校推薦で大学を受験できるチャンスが巡ってきたのです!

最後の模試までどの大学も合格ラインに達することはなかったものの、通信簿の成績は良かったことが功を奏しました。

本来、指定校推薦は文理数コースの人しか受けられないのですが、欠員が出たこと。

大学進学希望者の中で、通信簿の成績が良かったこと。

この2点が私に大学生になる道を作ってくれました。

本当にラッキー!!

明確な強い想いを持ってコツコツ頑張ったからこそ、奇跡を引き寄せられたと信じています。

最後まで決めかねていた教員免許の科目は、必然的に「商業」に決まりました。

正直なところ、商業がどんな科目かよく理解していませんでしたが、簿記に興味があったのと、まだWindows95が発売されたばかり時代ということもあり情報系の授業も新しいジャンルでワクワクしました。

模試の結果を見るたびにやさぐれて、友達とロッテリアやミスドにたむろしていましたが、気持ちを切らさずに、早めに家に帰り勉強を続けて本当によかったと思っています。

「大学に行って、高校商業の教員免許取って教壇に立つぞ!」

そんな想いを胸に充実の高校3年間を終え、晴れて大学生になることができました。

次回の「自分史シリーズ」では、その大学時代のことを振り返っていきます。3部構成になりそうです。

不定期更新になりますが、引き続きよろしくお願いいたします。

▲本当はこういう合格発表の掲示板を見てみたかったのですが、学校の授業があり断念……。私の代わりに両親が大学まで見に行ってくれました。番号見つけた時の臨場感ある話を聞きながら疑似体験もできたので、雪の中をわざわざ見に行ってくれたことを今でも感謝しています。


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宮治 有希乃の写真

宮治 有希乃

組織育成パートナー

ITベンチャーと人材ビジネス業界で11年間、組織人事・キャリア領域に取り組み、2018年に独立。現在は中小企業向けに、関係の質を高める組織育成プログラムを提供中。「関係の質」を高める「コミュニケーションスタイル診断」を活用し、研修やコンサルティングを通じて組織パフォーマンスの向上と健全な職場環境づくりを支援している。

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