【宮治の自分史 #09】2社目のパソコンインストラクター編
2020年10月8日
カテゴリー: 自分史
「こんな人生歩んできました」と自己紹介を兼ねてスタートした「宮治の自分史シリーズ」。
かなりひっそりと不定期で更新を続けているシリーズですが、またもや間があきました。
「いつになったら現在になるのか……」という見通し不確かなシリーズですが、更新を待っていただいている方も多いので、気長に更新していきます。
ということで、連載9回目の今回は、転職2社目の経験を「2社目のパソコンインストラクター編」をご紹介します。
幻の科目等履修生時代
新卒で就職したパソコンスクールを3年で退職した私は、1年ほど学生をしていました。
北海道情報大学で「情報」の教員免許を取得しようと科目等履修生になったのです。
大学卒業に「商業」と「司書教諭」の教員免許は取得していましたが、パソコンインストラクターを経験して「情報」科目に興味を持ったのがきっかけでした。
「妥協して現状維持をしていても衰退するだけ」と心に決めて退職した時に具体的にやりたいことはなかったのですが、将来の選択肢のひとつとして「教員になる」という道があるように思えたんですよね。
高校生の頃から教員になることを目標に大学に進学したのに、最後の最後で試験すら受けなかった私。
もっともらしい理由をつけて就職浪人を避けるために逃げたのですが、心のどこかに教員になりたい気持ちが残っていました。
「再度挑戦するなら、このタイミングしかない」
「でも商業科は何かが違う」
「これからの時代は情報だよね」
と、自問自答を重ねた結果、すぐに教員採用試験を受験するのではなく、まずは「情報」の教員免許をしようと決意。
こうして全単位を取得できれば「情報」の教員免許が取得できる科目等履修生になりました。
ただこの時の決断にすぐ後悔することになります。
全く講義についていけなかったからです。
通信制ではありましたが、スクーリングが充実していたので大学で講義を受けることが多かったので自習よりは理解できたものの、とにかくちんぷんかんぷんでした。
講義ではC言語やJavaを学びましたが、全然理解できず、ソースコードを見るだけで睡魔が襲ってくる状態だったんです。
高校時代も英語の授業でアルファベットを見るだけで眠くなっていたので、これはもう習性なのでしょう。笑
結果的に1年在籍はしていましたが、途中で挫折。
単位を取るために大学まで行った記憶は残っていますが、結果だけでなく実際に受験したのかすら曖昧な状況です。
もちろん「情報」の教員免許は取ることができず、いつのまにか「教員になる」という気持ちも消えていました。
初日の涙が「負けず嫌い魂」に火がつけた
大学の科目等履修生になると決めた後、勉強しながら仕事をしようとアルバイトを探しました。
いくら実家暮らしとは言え、年単位で無職で過ごせるほどの貯金はなかったからです。
学費の支払いもありますしね。
応募したは新規オープンするコンタクトレンズ店の接客業務。
何のなくピンときただけの仕事だったのですが、札幌市中心部で働けること、綺麗な空間で働けること、人と接する仕事であること、パソコン操作が必要な仕事であることなど魅力はいっぱいでした。
ただ選考が全く進まず、私の方から辞退することに。
採用業務を経験したら今でこそ、連絡が遅くなる事情は理解できなくはないのですが、さすがに1か月音信不通はなしです。
結局、1社目の経験を活かしてパソコンインストラクターとして仕事を始めることにしました。
2社目となるこの会社は関西本社のどちらかといえば家族経営的な企業風土で、独特な空気感があったことを鮮明に覚えています。
特に最初に仕事を教えていただいた先輩との仕事が印象的でしたね。
仕事は完璧。自分に厳しく、人にも厳しい。オンオフの切り替えがすさまじく、常に透明のバリアを身にまとっているような方でした。
初日はコミュニケーションの取り方が全く分からず、意思疎通ができないため撃沈。仕事も分からず、帰宅後に自然と涙が溢れたことは一生忘れないと思います。
「大手さんで3年間何をしてきたんですか?」
「新卒じゃないんだから、言われなくてもできるのが当然ですけど」
そんな厳しい言葉にうろたえながらも、いつしか私の負けず嫌い魂が燃え始めていました。
必死に食らいつき、できることは何でもやろうととにかくめげずに立ち向かう日々。
いつしか先輩が身にまとっていた透明のバリアはなくなり、たわいもない雑談までできるようになったのが、とても感慨深いです。
本当にプロ意識が高い方だったので、背中を見て多くのことを学ばせていただきました。
先輩が結婚退職された後、教室責任者を引き継げたことは大きな自信にもなりました。
生徒さんと作るパソコン講座
科目等履修生として学ぶことを断念した後は、正社員として仕事に没頭していきました。
光栄なことに複数校の教室責任者を任せていただけたので、1社目では経験できなかった教室運営まで携わることができたことに感謝しています。
特に郊外の直営校では、生徒さんのリクエストに合わせて講座開発をしていたので、本当に楽しかったですね。
シニアクラスの生徒さんからは、お孫さんとの写真でフォトアルバムを作りたいというリクエストあったので、「スクラップブッキング講座」を3年ほど開校していました。
自力でパソコン操作ができるようになった後も、「先生に会うために通うよ」「みんなで集まるのが楽しいしね」と継続してくださり、本当に嬉しかったです。
私が退職した後も、毎年パソコンで作成した年賀状でご縁が続いていることにも感謝しています。
そして、札幌市内の直営校では資格取得を目指す若年者を対象に受講をすることが多かったです。
私自身もインストラクターとして自信を持って授業ができるようMicrosoft office Trainerを取得したりと自己研鑽に励みながら、講座を担当しました。
決められたカリキュラムを決められたとおりに教える1社目と違い、生徒さんのリクエストに応じることもできる環境にとても充実感を持って働くことができたと振り返っています。
一方で、働けば働くほど不安が次から次へと湧き上がってきました。
朝から晩まで週6日勤務。稼働時間は長いけど、給与水準はものすごく低い。このまま30代に突入し、体力的に大丈夫だろうか。
そんな待遇面と体力面での不安。
そして、パソコンが使えることがあたり前になりつつある今、パソコンスクール業界はこの先どうなっていくのだろうかといった業界不安。
入社して3年が経った頃から漠然としつつも日に日に増してくる不安を拭えないまま、時間だけが過ぎていきました。
キャリアコンサルタントとしての第一歩
そんな時に大きな転機が訪れます。
2社目のパソコンスクールは職業訓練校でもあったので、社内で就職支援者を育成する動きが出てきたのです。
国がキャリアコンサルタントを養成していこうと力を入れ始めたタイミングでもあり、独立行政法人 雇用・能力開発機構の「キャリア・コンサルタント養成講座」に通う機会に恵まれました。
支援者になるための学びでしたが、結果的には自分自身のための126時間だった気がしています。
学べば学ぶほど、抱えていた不安が具体化していき、転職を考えるようになっていったからです。
キャリアコンサルタントとしての役割を知れば知るほど、パソコンスクールの中だけではできる範囲が狭すぎると感じましたし、パソコンスキルを活かした選択肢だけではなく、もっと多くの選択肢を提示できる支援者になりたい。
そんな想いが芽生え始めました。
この時ちょうど29歳。転職するなら30歳になるまでに動きたい。
こうして私は在職したまま、「密かに思い入れがある」人材ビジネス業界の会社に応募し、内定をいただくことができました。
養成講座を受講していなければ、転職の決断はできなかったかもしれません。
会社が提供してくれた教育機会をきっかけに転職したので、後ろめたさはあります。
ただ、受講料を全額自己負担してでも思い切って決断してよかったと今でも思っています。
こうして2006年11月に3年5ヶ月働いた2社目の会社を退職し、パソコンインストラクターから卒業しました。
なかなか時が進まない社会人シリーズの自分史。
もう少しペースアップして更新していけるようにしたいですね。
次回は「人材ビジネス業界編」で異業種・未経験転職した派遣会社での出来事やその頃の想いを綴っていきます。
不定期更新になりますが、引き続きよろしくお願いいたします。
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宮治 有希乃
組織育成パートナー
ITベンチャーと人材ビジネス業界で11年間、組織人事・キャリア領域に取り組み、2018年に独立。現在は中小企業向けに、関係の質を高める組織育成プログラムを提供中。「関係の質」を高める「コミュニケーションスタイル診断」を活用し、研修やコンサルティングを通じて組織パフォーマンスの向上と健全な職場環境づくりを支援している。