【宮治の自分史 #01】誕生~小学生編
2019年1月8日
カテゴリー: 自分史
私の旧姓は「泉」です。
結婚後もビジネスネームは「泉」と名乗って仕事をしてきましたが、2018年9月から戸籍名の「宮治」にすることをかなり迷って決断しました。
(結婚後の苗字については、自分なりに思うことや経験したことがあるので、別の機会にまとめてみたいと思っています。)
どんな時も「宮治」と名乗るようになって、4か月。
結婚して5年経っていますので、さすがに「宮治」呼びにも慣れてきていますが、ビジネスネームを変えたことで、新たに一歩踏み出した感じがしています。
ただ「泉 有希乃」として人生の85%を生きてきたことも大切にしていきたいですし、そもそも「泉 有希乃」も「宮治 有希乃」も私です。
そんな想いから「宮治」になってからの私しか知らない人にも「泉」としての私のことを知ってもらいたいないと考えるようになりました。
そして不思議と「この想いを形にするぞ!」と謎の気合が入ったので、これから不定期で自分の過去を振り返るシリーズを連載してみたいと思います。
正直ゴール設定もせずに無計画に始めますので、どれくらいのボリュームになるかもいつまで続くのかもわかりません。
おそらく「いつまでこのシリーズ続くの?!」「まだやっていたの?!」というツッコまれるシリーズになるのは確実ですが、気長にお付き合いいただけたら嬉しいです。
それでは早速ではありますが、今回は私が生まれた時から小学生時代のことを振り返っていきますので、ぜひご覧ください。
★参考情報:「宮治の自分史」シリーズの記事一覧
ほとんど記憶がない幼少期
1978年1月14日、午前3時3分、北海道札幌市豊平区生まれ。
私は、本屋に勤める会社員の父と専業主婦の母の間に生まれた長女です。
何不自由なく両親に愛情たっぷり、そして厳しく躾けられ育ててもらいました。
両親だけではなく、近所に住んでいたおじいちゃんにも本当にかわいがってもらっていたので、私の幼少期には特につらかった経験はなかったです。
逆にインパクトのある出来事がないくらい、日常が平穏で幸せな日々を過ごしていたと思います。
「思います」としたのは、ほとんど当時の記憶がないからです。
「人は辛いことや悲しいことはよく覚えているけれど、他のことは忘れてしまいやすい」と聞いたことがあります。
平穏すぎたからなのか、私の記憶力の関係なのかは定かではありませんが、当時の記憶がほとんどないので「思います」と推測しかできないのです。
それでも当時の写真を見ると「楽しかった感覚」「幸せだった感覚」が蘇るので、私は幸せな日々を過ごしていたのは間違いないと確信しています。
▲大好きなおじいちゃんと。はじめてディズニーランドに連れて行ってもらって相当ウキウキしていたと言われている時の写真です。40代になった今も、幼いころの面影はあるようです。
学び好きの原点は「水泳」
私は、子どもの頃から習い事が大好きでした。
大人になってから明確に「学ぶことが大好き!」と断言できるようになりましたが、子どもの頃から学ぶことで自分のキャパが増える楽しさや充実感を感じていたからだと思います。
初めての習い事は、3歳の時にはじめた水泳です。
小学校5年生まで約10年間続けました。
習い始めた頃は「すぐに溺れそうになるし、鼻や耳から水が入って痛いし、水は冷たいし、先生はスパルタだし……」と、とにかく苦痛であまり前向きに通ってはいなかったようです。
それでも母に連れて行かれながら何とかやめずに続けていましたが、引っ越しをきっかけにスイミングスクールを変えたことが転機となりました。
「水泳って楽しい!」と前向きに練習するようになったのです。
(この頃は小学生になっているので、おぼろげながら記憶があります。)
新しいスイミングスクールは、何をどこまでできるようになれば進級できるのかが明確でした。
また、大会で入賞したらご褒美に賞状だけではなくメダルがもらえたりしたので「もっと早く泳げるようになりたい!」と自然と気持ちが高まっていくことが楽しかったです。
新しいスイミングスクールに通い始めた時は、水泳をはじめて5年経っていたこともあり「こんなに泳げるようになった」という自信も原動力にもなっていました。
子どもの頃は楽しさだけで水泳を続けていましたが、大人になって当時を振り返ると「諦めずにコツコツ続けていけばできるようになる 」という経験が、私の学び好きの原点なのではないかなと感じています。
ちなみに、小学生になってから水泳で2つ目標を立てていましたが、残念ながら2つとも未達のままです。
目標のひとつは、最上位クラスの認定を受けること。
父の転勤が決まり、スイミングスクールを退会したので、あと一歩のところで叶いませんでした。
もうひとつは、大会で金メダルを取ること。
こちらはどう頑張っても銀メダルまでしか取れませんでした。
銀メダルでも両親やおじいちゃんがとても褒めてくれたので、もちろん嬉しい気持ちはありましたが、やっぱり悔しかったですね。
正直、水泳をはじめるまでは「悔しい」という感情がよくわからなかったのですが、金メダルに手が届かない自分の不甲斐なさに対して「悔しい」と感じた時のことははっきりと覚えています。
人生初の目標が2つとも未達。
特に金メダルを取れていないことが今でもずっと引っかかっていて、今でも何かに挑戦する時は「金メダル=1番」を目指すことが原動力になっています。
ただ、大人になった今も「1番」になれた経験がないので、「1番になれないコンプレックス」に大人になってからも苦しんでいました。
▲プールの飛び込み台が好きです。水しぶきがきれいに飛ぶ飛び込みに憧れて練習していました。得意な種目は個人メドレー!背泳ぎでまっすぐ泳げず苦戦しながらも、得意のバタフライでカバーするパターンで乗り切ってきました。
「裸足で長縄飛び」が私を変えた
小学6年生の時に札幌から松本に転校したのを機に、水泳などの習い事は一旦やめて学校に慣れることを優先することにしました。
子どもの頃は今よりも人見知りだったこともありますが、それ以上に札幌と松本はカルチャーが違うことが多く、カルチャーショックで戸惑っていたからです。
・自転車に乗る時はヘルメット着用 →引っ越し先のマンションにヘルメットが置いてあって驚きました。 ・6年生でもランドセル通学 →札幌では1年生の時しかランドセル通学をしていませんでした。 ・方言がわからない、何言っているのかわからない →特にご年配の方の話が最初から最後までわかりませんでした。 ・蛙の解剖実験をする →札幌では写真を見るだけでした。 |
中でも私史上、最大に衝撃的だったのは「グラウンドに裸足で行くこと」と「クラスごとに大長縄飛びをすること」でした。
これまで裸足で外を歩いたことがなかったので、裸足で立つだけでも痛い!
歩いたらさらに痛すぎて涙目……というよりも、とにかく本気で泣いていました。
さらに私は今まで大長縄飛びをやったことがなかったので、どのタイミングで飛んだらいいのかすら分からず終い。
ようやく理解できても足が痛くて飛ぶことが全くできない情けない状態でした。
「それまで悠々と何回も飛べていたクラスに私が入ったことで、全て台無しにしている」
「私は最悪な状態の元凶で、迷惑をかけてしまっている」
とにかくネガティブなことしか思い浮かばず、人生初めての大きな挫折を味わいました。
と、同時に身震いするような恐怖も味わいました。
「自分だけできない」
「自分のせいで迷惑をかけている」
このような状況が受け入れられず、心がパニック状態になり恐怖で押しつぶされそうにもなりました。
とにかく恐怖で仕方ない日に怯えていましたが、ある時ものすごく冷静になれる瞬間が訪れます。
「水泳もできないことが多かったし、金メダルも結局取れなかったのに、この恐怖はどこから出てきているのだろうか」
……なぜだろう。
「水泳をしていた時は、悔しい気持ちはあったけど、恐怖は感じなかったのにな」
……なぜだろう。
色んな想いが心を駆け巡った結果、ひとつの核心にたどり着きます。
それは「クラスメイトの頑張りを自分が台無しにしていること」に対する焦りです。
そして、それが原因で「自分の居場所がなくなってしまうのではないか」という不安が恐怖なのだと気づきました。
思い返せば、それまでも誰かと協力する機会はたくさんありましたが、苦手な役割が当たることがなかった私。
そのため初めてのことも数回練習すればできることばかりで、誰かに迷惑をかけるということもなく、居場所を失うこともなく過ごしてきました。
水泳は目標未達でしたが、あくまで「自分との戦い」なので、たとえ未達でも他の人の頑張りを台無しにするようなことはありません。
一方で大長縄飛びは団体戦。
ひとりの失敗は全員の失敗となります。
「他の人の努力を私ができないことで台無しにしている事実」に「申し訳なさ」「心苦しさ」「無力感」など、様々な感情が焦りとなり、恐怖になっていったのです。
そして私は、水泳を通して「諦めずにコツコツ続けていけばできるようになる」という経験をしていたので、頑張る楽しさだけではなく、頑張るつらさもよくわかっていたからこそ、クラスメイトに合わせる顔がなかったのだと思います。
自分ひとりとだけ向き合っていた時には感じることができなかった恐怖。
表情も硬く、うまく言葉を発することもできず、存在を消したくなるような感覚があったことも覚えています。
ただ、この恐怖からは1週間もたたないうちに抜け出すことができました。
それはなぜか。
あるクラスメイトが明るく笑顔で「練習しよう!」と声をかけてくれ、助けてくれたのです。
大迷惑しかかけていなかったのに、本当に驚きました。
大長縄飛びは、とにかく練習して飛べるようになるしかありませんが、ひとりでは練習できません。
でも私には「協力してほしい」と声をかける勇気がなかったので、クラスメイトの一言はまさに恵の声!
そのクライメイトのおかげで、多くの人が一緒に練習してくれることになり、練習を重ねるうちに恐怖心はいつしか消えていきました。
そして、この時はじめて「感情」の奥深さを知り、同時に「感情」により人の行動が変わると実感できたことをハッキリと覚えています。
恐怖心でいっぱいだった時は、何度やっても飛べなかったのに、恐怖心が消えた途端、不思議なくらい飛べるようになったからです。
「同じ大長縄飛びなのになんでだろう?」と不思議でしたね。
子どもだったので、詳しいことはわからなかったのですが、率直に「人っておもしろい」とワクワクしっぱなし。
これが「人について、感情についてもっと知りたい」と感じた原点となり、歳を重ねるにつれて「人に関わる仕事がしたい」と強く思うようになっていきました。
こうして気づけば20年以上「人に関わる仕事」をしていますので、大長縄飛びは、人生の転機と言える出来事と言っても過言ではないのかもしれません。
今回は「子ども時代に経験したことは、今の自分の原点なんだな」と感じながら、ぼんやりしていた記憶の糸をたどり、自分の歩みを振り返ってみました。
次回の「自分史シリーズ」では、中学生時代を振り返っていきます。
「暗黒の1年がある中学生時代をどう振り返るのか……」
もしかするとどんな振り返りになるのか一番楽しみにしているのは私かもしれません。笑
次回も不定期でお届けしますので、引き続きよろしくお願いいたします。
▲松本は城下町で、はじめて瓦屋根を見て日本の歴史を感じました。松本城は本当にかっこよくて3年間で何度も足を運んだ大好きな場所です。「日本の名城100のスタンプラリー」にチャレンジ中ですが、私は松本城が一番テンションあがります。
●プロフィール
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宮治 有希乃
組織育成パートナー
ITベンチャーと人材ビジネス業界で11年間、組織人事・キャリア領域に取り組み、2018年に独立。現在は中小企業向けに、関係の質を高める組織育成プログラムを提供中。「関係の質」を高める「コミュニケーションスタイル診断」を活用し、研修やコンサルティングを通じて組織パフォーマンスの向上と健全な職場環境づくりを支援している。